NPO法人Ballet Noah バレエ ノア    
                群馬県高崎市上中居町563-2  tel:027-321-5221     高崎沼田バレエスタヂオ
                            

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出張公演
プリムローズコンサート
『紙ひこうき(kamihikouki)Les Avions de Papier』
創作から上演・反響

『紙ひこうき(kamihikouki)』評論集

紙ひこうきガールのゆくえ
尼ケ崎 彬 Amagasaki Akira
 (学習院女子大学教授/舞踊評論家)
1994年、平田オリザ作・演出の『転校生』は演劇界に大きな衝撃を与えた。このすばらしい舞台を演じたのがプロの役者ではなく、すべて公募で集められた女子高生たちだったからだ。しかも脚本は彼女たちとのワークショップの中で作られていったという。ある演出家は「もうプロの役者はいらない」とまで言った。そしてダンス界にもついに『転校生』が登場した。ピナ・バウシュが主宰するヴッパタール舞踊団のファビアン・プリオヴィユが日本のバレエ・ノアの生徒たちと作り上げた『紙ひこうき』である。近年名の知れた舞踊家が若いダンサーとワークショップをしながら作品を作り、劇場で公開することは珍しくない。だが、たいていは発表会のレベルを超えないそれらとは一線を画し、『紙ひこうき』は舞台芸術として一級の作品に仕上がっていた。
 『転校生』同様これも女子高生の世界を描いている。ダンサー自身、ほとんどが実際に女子中・高生である。そしてプリオヴィユも彼女たちとワークショップをしながら作品を作っていった。違うのは、『転校生』が結局平田オリザの世界であるのに、『紙ひこうき』はノアの生徒たちの世界であることだ。プリオヴィユは彼女たちと話し合い、その一人の話を全員に投げかけて共通の出発点としたという。そして「私は学校がすっごい嫌い」という言葉に始まる作品が生まれた。ダンスと小芝居、ユーモラスなシーンと不可解な光景などをコラージュする構成はピナ・バウシュに似ている。そして物語をなさない断片の組み合わせから全体として声にならない悲鳴が聞こえてくる。まるで昔のピナ・バウシュの仕事を見るようだった。ピナに似た手法の作品は多いが、これほど成功したケースを私は知らない。もちろん違いはある。ピナ・バウシュは個々のシーンを多義的に作り、作品のメッセージが一つに収斂しないように慎重に構成する。しかし『紙ひこうき』の象徴的表現は何を伝えたいかが明確で、作品のメッセージは一つに収斂してゆく。それはこの作品の場合必要なことであった。ワークショップは女子生徒たちが自分の抱えている問題を明確に認識していく過程であっただろう。漠然とした抑圧感が集団生活における同調の強要からきていること、堪えがたいのは暴力よりも仲間の視線であること、身を守るためには自分の顔を自分の手で消さなければならないこと、仮面は与えられるのではなく自分で択び取るように仕向けられること。そして紙ひこうきは空中で自由を得るけれども、人が空に飛び出すのは死ぬためであること。プリオヴィユは日本の女子中・高生の内部にあるものを外に引き出し、それに形を与えることに力を貸し、ほらこれが君たちのほんとうの顔だよと言おうとしたのだ。こういう場合、表現は明確でなければならない。メッセージは収斂しなければならない。
 『紙ひこうき』は三つの意味で重要である。第一に作品そのものがすばらしいこと。第二に未熟なダンサーがプロを圧倒する舞台を見せたこと。第三にピナ・バウシュの手法が彼女以外によっても成功しうる普遍的な方法であることを証明したことである。
 さいわいにも『紙ひこうき』は評価を得て半年を待たず今回再演の機会を得た。しかしこの作品は女子高生によって踊られるからこそ意味があるとすれば、10年後大人になった同じメンバーが上演することはできないだろう。そのときこれは伝説の名作になるのだろうか。それとも、女子高生たちの自殺を描いた如月小春の戯曲『DOLL』が今も全国の高校生によって演じられているように、高校生ダンサーたちによって踊り継がれる古典となるのだろうか。

(これはダンスマガジン2008年7月号に掲載された原稿を加筆修正したものである)
舞踊評論家 日下 四郎 氏のwebsiteより

 チラシの段階では、もうひとつ外郭のハッキリしない印象のPRだったが、要は群馬県高崎市を本拠とするNPO法人“バレエ・ノア(Ballet-Noah)”が、今回は《さいたま芸術劇場》へ出張して、そこで2本の創作を発表するというもの。さらにその企画のポイントとして、メインの「Les Avions de Papier」の出演者は、すべて地元の女子高校生からなり、そのほかにもう1本、その振付・演出者であるファビアン・プリオヴィユが、「EDDIE」という独立の
短編をみせるという内容のプログラムであった。

はじめにその短編から公演は始まる。真っ暗な舞台の上手寄りに、一脚の白い椅子が浮かび上がる。その中へ男がひとり入ってきて腰を下ろすと、オルガン調のサウンドをバックに、短い物語のような説明が流されたあと、コップで1杯の水を飲む。そしてそのままの姿勢で眠ってしまう。突然強い衝撃音が聞こえ、それと同時に男は体ごと跳ねあがり、はげしくフロア上へ叩きつけられる。ややあって気がついた彼は、ゆっくりと、しかし必死の努力でもとの椅子までたどりつき、そこでもういちどコップの水を飲んだところで、いちど舞台は暗転となる。
なんとも奇妙な導入部だが、これはファビアンがダンサーとして、これまでの舞台で体験したアクシデントとその後遺――、靭帯や肘、あるいは半月板などに受けた傷あとと苦痛、そしてそれからの必死の回復への努力を、冷静にダンスとしての形に表現してみせたものであることがわかってくる。そしてそれからあとに続く、一風変わったバレエ技法によるパとタン、さらにストロボを援用して身体パートを切断してみせるシーンは、すべて身体のハンディキャップをカバーするために、彼自身が工夫して編み出した、いわば変則的な身体のポジションやスタイルの開示をみせた場面なのである。
まあここまでは個人的な体験に着眼した、やや難解だが珍しい個性的なソロ作品として鑑賞すれば、それで一応ことは足りるだろう。しかし凄いのは、この先行作品のオリジナルな技法と発想が、そっくりそのまま委嘱作品である、次のメインの作品に生かされ、主題と身体表現のために使われているという一事だ。ファビアンはおのれの体験から取得した独自の表現としての小宇宙を、もういちど80分のダンス創作の大宇宙に、見事に拡大蘇生させてみせるという離れ業をやってのけたのである。

 そのメインの創作バレエ「紙のヒコーキ」は、今の日本に見る女子高校生らハイティーンに巣くう、いつわらざるいびつな心象風景である。どちらかというと落ちこぼれ、一歩誤ればそのまま奈落への道を突っ走りかねない微妙な年齢層の女の子ばかり。その傷ついた心理と行動の裏側は、健康で将来を約束された良家の子女の夢とは無縁の世界であり、それをフランス人であるプリオヴィユが日本で取材し、彼自身の開発した身体の損傷に根付く跛行的表現とオーバーラップさせながら、バレエ作品に結実してみせた。そこに驚きにも似たオリジナリティを発見するのである。
はじめ舞台の縁に座った女の子が、ゴム風船を脹らませ、その表面にマジックで2個のX印と波形を書きいれる。つづけて空気を吹き込むと、黄色い風船はパンとはじけ、同時にステージ奥に6人の女子高校生らの姿が浮かび上がる。そして口々に叫ぶ。「あたいらみんな学校が大嫌い!」と。
 これ以後はじまる物語は、すべて彼女らの身辺から拾い上げた日常の生態集だ。さまざまな挿話や心理風景が、次々にダンスを柱に展開するわけだが、その描写と演出の力は抜群だ。座ったままの群舞とか、片足の倒立から転倒へなど、「EDDIE」で披露された跛行の振付はもちろんだが、それ以外に、ストップモーションやコマ落しを生かした授業風景の映像、フロアにチョークで書き並べられるクラスでの禁止項目、白いマスクや頭巾の活用、カルタあそびとヒコーセン飛ばし(ここに題名は由来する)、また照明色のカットチェンジで、一瞬に女の子のウラの心理を顕在化してみせるなど、ファビアンのセンスには意表をつく説得力があって、最後まで観る人を飽かせない。

さまざまなコンテンポラリー・ダンスが登場する昨今では、ほとんど演劇作品と区別があいまいな作品も多い。この創作も素材が素材だけに、たしかにドキュメントとして多種の台詞と言葉がとりこまれている。しかしこの舞台が、観終わった時点で、すぐれてダンス作品として仕上がっていることは間違いなく、その力量に打たれた。外見上の形のひとつひとつに、心理のひだがメタフォリックに鋭く掘り込まれているからだ。意義のあるNPO集団《バレエ・ノア》の出張公演だった。(16日所見)

 志賀 信夫氏によるダンス評論文 『TH叢書No35』(アトリエサード)掲載
「女子高生のピナ・バウシュ」

  素晴らしい舞台を見た。群馬県高崎市で瀬山紀子が指導するバレエ・ノアをファビアン・プリオヴィユが振り付けた。これは女 子高生たちが、ピナ・バウシュのような舞台を見事に演じるものだった(彩の国さいたま芸術劇場、四月一七日)。フランス人フ ァビアンはピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団に所属していたダンサー・振付家。瀬山紀子の娘で、ヴッパタール舞踊団の瀬山 亜津咲と結婚したことがきっかけだ。合わせてファビアンのソロ『エディ』を上演した。『エディ』はテクニックとセンスを感じ させ、怪我を乗り越えてきた過程を描くという興味深いものだった。

  群舞を中心とした『紙ひこうき』は、タンツテアターの構造を持ち、女子高生の生活や心理とその素材によって構成されながら 、リアリティを持って迫ってきた。「いじめ」を語るモノローグ、時間が止まり仲間が動かなくなると、一人動ける子が悪意をぶ つけ出す場面や、校舎の中と生活を描く映像などそれぞれが惹きつける。

  ピナ・バウシュの創作方法はダンサーたちに多くの質問をして言葉や動き、ダンスやパフォーマンスで表現させて作品を作る。 そこにはダンサーたち個人の生活や心理が浮かび上がり、独特の世界を作りだす。ファビアンはその方法をバレエ・ノアで行った ピナの作品ではタイトルやトータルイメージと個々のモチーフが強い連関を持たないように見えるところも魅力だが、この作品は 「女子高生」という一つのテーマで作られているところが異なる。それゆえに一般の観客にもよくわかるが、この場合それはマイ ナスではない。揃った群舞の作り方も、ピナによく似たもので、倒れたりよじれたりする部分も多いが、それも魅力的に演じられ た。大人ほど先入観なく踊ったこと、自分たちのエピソードで構成されることで作品に入り込み、踊る個人個人にとって意味とリ アリティのある作品となったことが、この舞台に独特の熱を与えているように思った。

  バレエ・ノアの母体となる高崎沼田バレエスタジオは昨年、海外で活動する谷よう子の振付で『蕾時代』を上演した(パルテノ ン多摩、二○○七年六月十一日)。この作品もほとんど幕を下ろして女子高生の足元の動きだけを見せるなど、実験性もある見 応えのある作品だった。それだけ新しい振付を受け入れる素地があったが、今回の作品には本当に惹き込まれた。世田谷パブリッ クシアターで八月の再演が決定した。ぜひ多くの人に見てほしい。

舞踊評論家 関口 紘一氏による評論(ChacottWebMagazine DanceCubeより)
 Les Avions papier(紙ひこうき)』は、今の女子高校生の心の有り様をヴィヴィッドに描いた作品。かつてフォーサイスが来日公演で、制服の集団が踊る<スクールガール・ダンス>を上演したことがあった。フォーサイス作品は、集団と個人の関係を象徴的に造型した舞台だったが、プリオヴィユの振付作品は、非常に具体的に女子高校生の実際を取材してダンスにしていて、<スクールガール・タンツテアター>とでも呼びたい舞台だった。
 ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団のダンサー、瀬山亜津咲がアシスタントを務めているが、フランス人の演出家がよくぞここまで日本の女子高校生の実態を把握しているな、と驚嘆するほどのリアリティを感じさせた。
 「私は学校が大嫌いだった」というナレーションからダンスは始まり、舞台のフロアに学校で禁止されている規則を延々とチョークで書き続けたり、制服を腰に結んだ紐でズルズル引きずって歩いたり、ただひたすら化粧だけを続けていたりなど、少々ベタな表現とも観られかねない演出もあったが、若いフレッシュなダンサーたちがじつに活き活きと踊って観客の心を掴んだ。
 数人のダンサーが一連の動きをしている時、隅に孤立して別の表現をしている一人のダンサーがいる、という構図が多かった。意識や感覚は共通しているのだが、何故か集団に参加できない心の構造を覗かせ、いわば、青春の実存に迫ろうと試みている。群舞は、倒れて立ち上がってまた倒れたり、座ったまま踊ったり、倒立したり、といったどちらかというとネガティヴな動きが多く、集団自体の心の屈折をも映し出していた。
 最近のコンテンポラリー・ダンスの中では、鋭い明確なテーマを追究する実力を持った作品だった。次回作にも期待したい。
2008416日、彩の国さいたま芸術劇場
小ホール